『座頭市物語〈4Kデジタル修復版〉』


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原作:子母沢寛 / 監督:三隅研次 / 脚本:犬塚稔 / 製作主任:田辺満 / 企画:久保寺生郎 / 撮影:牧浦地志 / 照明:加藤博也 / 美術:内藤昭 / 装置:梶谷和男 / 編集:菅沼完二 / 擬斗:宮内昌平 / 音楽:伊福部昭 / 邦楽:中本敏生 / 出演:勝新太郎、天知茂、万里昌代、柳永二郞、島田竜三、三田村元、中村豊、南通郎、千葉敏郎、守田学、浜田雄史、西岡弘善、細谷新吾、馬場勝義、結城要、船木洋一、市川謹也、尾上栄五郎、堀北幸夫、福井隆次、千石泰三、谷口昇、小林加奈枝、真城千都世、毛利郁子、山路義人、長岡三郎 / 初公開時配給:大映 / 映像ソフト最新盤発売元:KADOKAWA
1962年日本作品 / 上映時間:1時間36分 / PG12
1962年4月18日日本公開
午前十時の映画祭11(2021/04/02~2022/03/31開催)上映作品
2017年3月24日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video]
TOHOシネマズ日本橋にて初見(2021/09/07)


[粗筋]
 下総の貸し元・飯岡助五郎(柳永二郞)のもとに、盲目の按摩・市(勝新太郎)がわらじを脱いだ。かつて別の宿場で縁があり、下総に立ち寄ることがあれば訪ねるといい、と言われていたという。
 賭場の傍で待たされていた市は、盲目と侮る博徒たちを引っかけて不興を買うが、その実力を欲した助五郎が客人として迎え入れられた。折しもこの地では助五郎の一家とと笹川繁蔵(島田竜三)の対立が激しくなっており、遠からず出入りがある可能性があった。助五郎は市の盲目とは思えぬ鮮やかな居合術が決め手になる、と睨んだのである。
 一方の繁蔵のもとにも、用心棒代わりの客人を招き入れていた。平手造酒(天知茂)というその男は、江戸において藩士として務めていたが、訳あって浪人となっていた。
 わらじを脱いでから怠惰に日々を過ごしていた市は、釣りに出かけた際、この平手と偶然に知己を得る。平手は、盲目ながら優れた感覚を持つ市に感銘を受け、市もまた、平手の実直な人品に惹かれ、互いに親近感を覚えた。
 助五郎一家では、市の世話係として、蓼吉(南通郎)という男をつけていた。この男は近ごろ、妹のおたね(万里昌代)から盛んに責められている。おさきという娘に手をつけ、孕ませたというのに、責任を負わずのらりくらりとかわしていた。おたねの執拗な追求に、とうとうおさきと逢う約束をしたが、その直後、市が釣りに出かける池に浮かんでいるのが発見される。
 平手は弔いがてら、一献酌み交わそう、と市を逗留する寺に誘う。そこへ、いよいよ飯岡一家への出入りを決意した繁蔵と手下がやって来た――


TOHOシネマズ日本橋、スクリーン6入口脇に掲示された『座頭市物語〈4Kデジタル修復版〉』の解説記事。
TOHOシネマズ日本橋、スクリーン6入口脇に掲示された『座頭市物語〈4Kデジタル修復版〉』の解説記事。


[感想]
 未だ、勝新太郎の存在とともに語り継がれる、邦画史に残るアンチ・ヒーローを描いたシリーズの第1作である。
 原作と呼ばれる小説はごく短く、映画にするにあたって人物像からかなり肉付けされているという。任侠を巡る史実を交えることで、異様な説得力のある世界を構築し、そのなかで飄々と立ち回る市の個性、存在感を力強く補った。確かに、1作目にして驚くべき魅力を発揮している。
 本篇に出てくるのは極道が中心――もっと露骨に言ってしまえば悪人ばかりだ。賭場の男たちは盲目で丁半博打に加わった市を鴨にしようと目論見、彼を歓待する助五郎も、間近に控えた出入りで市を使い勝手のいい手駒として利用しようとする。その手下たちも、多くは喧嘩や博打に明け暮れ、市の世話役である蓼吉の描写が象徴するように、多かれ少なかれ家族に迷惑をかけている。
 市はそんな彼らを、目の見えぬ身で巧みに手玉に取る。賭場では鴨にされたふりをしてペテンにかけ、周囲の男たちから易々と金を巻き上げる。賭場の男たちの品性の乏しさから助五郎の人品の貧しさをも察知するが、自身の居合術の腕前を利用していることに気づくと、愚鈍を演じてその懐に入り込み、暢気に過ごす。悪党どもの企みを承知の上で、軽妙に翻弄する市の姿が実に痛快だ。
 一方で興味深いのは、市に対する振る舞いから、世間が盲目の人の扱いを知っているものとして描かれている点だ。最初に市と接する猪助(中村豊)からして、市が盲目と知って肘を支え誘導する。こうした所作は飲み屋でも同様に見られ、下手をすると現代人よりも手慣れた様子だ。
 しかしこれは、解釈によっては正確な描写かも知れない。この時代は、医学の発展した現在よりも、障害を持つひとは身近にいた、と考えられる。視力を喪うことの苦労は少なくないが、市もそうであるように、按摩など、生計を立てる道はあった。按摩が宿場に定着していたように、そうした人びととの接し方も、ある程度栄えた集落であれば浸透していた、と思われる。果たして本篇の製作者がどの程度、考慮したうえでこのような描写にしたのかは不明だが、安易に障害者を蔑むような表現をしなかったのは、炯眼と感じた。
 単純に客商売や、不特定多数の人間と接する立場ゆえの処世術かも知れないが、非情な本篇の世界観においても、そこに確かな優しさ、人情味を感じさせる。市も、ヤクザ者には底意地の悪い態度を取るが、堅気の者や、善良な振る舞い穂する相手には礼儀正しく、見えないなりの気遣いを示す。兄の言動に悩まされるおたねや、市の実力をすぐさま察知し経緯を持って接してきた平手への言動は誠実だ。悪党には悪党らしい冷淡さを示しながらも、信用できる人間の前での市は善良だ。その繊細なやり取りは、基本的に剣呑な物語の中に巣食いに美しい情緒を添えている。
 そして、そこに情緒があるからこそ、クライマックスの苦みと毒がじんわりと沁みてくる。本篇の最大の見せ場は、互いの立場を知らずに友好関係を築いた市と平手との一騎打ちだが、舞台設定も決して凝りすぎてはいない――橋の上で対峙したふたりを、斜め下から煽るように映したアングルにはこだわりを感じるが、双方の立ち姿、全身に漲る緊張感を等しく捉える、という考え方からすれば決して突飛ではない。しかしそこに緊張感と等しく哀感、情緒が漂うのは、ふたりの境遇や関係性をシンプルに、しかし着実に追ってきたからこそだ。
 クライマックスのあとに描かれる、非情な結末も忘れがたい。眼は見えないが剣技に優れ、善良さも持ち合わせているが、それゆえに堅気と混じって生きていくことは出来ない己の性を知る市らしい幕引きである。
 何ら教訓を残すものではない、娯楽映画には違いないが、しかしその味わいは深い。私が鑑賞した勝新太郎版座頭市はこれのみだが、本篇だけでも、勝新の代表作になることが充分に納得のいく傑作である。

 勝新太郎亡きあと、テレビや映画などで《座頭市》は採り上げられ、様々な俳優が挑んでいる。しかしそのどれもが1本止まりなのは、勝新太郎、とりわけその出発点たる本篇があまりに完成されすぎているせいだろう。
 個人的に、ユニークな外観と現代的趣向を採り入れたビートたけし版も、女性に脚色した綾瀬はるか版も、その最期に焦点を当てた香取慎吾版もそれぞれに悪くないと思うのだけど、本篇を観てから振り返ると、確かに理想には達していない、と感じてしまう。
 魅力的なアンチヒーローゆえに、今後も挑む作り手はいるだろう。しかし、勝新版、とりわけ本篇の域に達するのは容易ではあるまい。


関連作品:
狂った一頁
「空白の起点」より 女は復讐する』/『浮かれ三度笠』/『濡れ髪三度笠』/『愛のコリーダ〈修復版〉
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仁義なき戦い』/『夜叉(1985)』/『ロード・トゥ・パーディション』/『デアデビル』/『武士の一分』/『ザ・ウォーカー(2010)』/『ドント・ブリーズ』/『任侠学園

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