『レポゼッション・メン』

『レポゼッション・メン』

原題:“Repo Men” / 原作:エリック・ガルシア『レポメン』(新潮文庫・刊) / 監督:ミゲル・サポチニク / 脚本:エリック・ガルシア、ギャレット・ラーナー / 製作:スコット・ステューバー / 製作総指揮:ミゲル・サポチニク、ジョナサン・モーン、マイク・ドレイク、ヴァレリー・ディーン、アンドリュー・Z・デイヴィス / 撮影監督:エンリケ・シャディアック / プロダクション・デザイナー:デヴィッド・サンドファー / 編集:リチャード・フランシス=ブルース,ACE / 衣装:キャロライン・ハリス / 音楽:マルコ・ベルトラミ / 出演:ジュード・ロウフォレスト・ウィテカーアリシー・ブラガリーヴ・シュレイバーカリス・ファン・ハウテン、チャンドラー・カンタベリー / ステューバー・ピクチャーズ製作 / 配給:東宝東和

2009年アメリカ作品 / 上映時間:1時間51分 / 日本語字幕:岡田壯平 / R-15+

2010年7月2日日本公開

公式サイト : http://www.repo-men.jp/

TOHOシネマズみゆき座にて初見(2010/07/02)



[粗筋]

 政府が財政破綻を認め、各地の紛争が激化、貧富の差が著しく拡大した近未来。科学技術の進歩により人工臓器が普及していたが、極めて高額のため、人々は長期間の、非常に締めつけの厳しいローン支払を強要していた。支払が継続出来れば、幸せな生活が営める。だが、滞納が続けば速やかにローンの対象品は回収される。

 そのための回収人――レポゼッション・メンの手際は鮮やかだった。債務者が忘れた頃に忽然と現れ、電極銃で昏倒させると、臓器製造会社に依頼された臓器を摘出して回収する。だが彼らは臓器を補うどころか、縫合すらしないで放置していく。だがこの時代は、それが許されているのだ。

 レミー(ジュード・ロウ)はレポゼッション・メンの中でも腕利きで通っている。昔馴染みの相棒ジェイク(フォレスト・ウィテカー)と協力し合い、ときに競いながら順調な成績を上げる彼らは、上司フランク(リーヴ・シュレイバー)からの信頼も厚かった。

 しかしレミーは最近になって、営業への配置替えをフランクに願い出ている。妻のキャロル(カリス・ファン・ハウテン)が危険、かつあまりに血腥い仕事を続けることを快く思っておらず、成長するひとり息子の姿を眺めているうちに、レミーも同様の感慨を覚えるようになっていた。

 ジェイクの恫喝にも、ジェイクの説得にもレミーは耳を貸さず、いよいよこれが最後の仕事、というときに、だがレミーは思いがけない災難に見舞われる。債務者を心停止させるための除細動機を使おうとしたとき、どういうわけか電気ショックが債務者ではなく、レミーを襲った――

 ふたたび目醒めたとき、レミーは自分の心臓が失われていることを知る。もはや人工心臓なしに生きていくことは出来ない、と知らされ、やむなくローンの契約書にサインをする。そして、ローンの支払いを賄っていくためには、営業職の給与では到底足りなかった。

 こうして結局、回収業務に舞い戻ったレミーだったが、復帰最初の仕事で彼は、債務者の皮膚にメスを入れることを躊躇ってしまう。そしてレミーは、一瞬のうちに追う者から、追われる者へと転落してしまった……

[感想]

 この作品の設定を聞いたとき、私がまず最初に思い浮かべたのは、本篇より1年前に日本で公開された作品『REPO! レポ』であった。高額ローンによる人工臓器の移植、債務の回収と称して暗躍するレポメンの姿を、あちらはロック・オペラの体裁で描いている。レポメンが公然と活動しているわけではない、美術がゴシック調であるなどの違いはあれど、退廃した社会、といった背景も本篇に似通っている。私はあまり記憶にないのだが、アメリカではこういう世界観が定着しているのかも知れない。

 しかし、そうした設定以外の部分で似た印象はない。本篇は、現代の社会と地続きという印象を築きながら、ムードは見事なまでに近未来SFだ。臓器摘出の際のヴィジュアルは、実際に執刀経験があるというアーティストが担当しているらしく非常に生々しいが、人工臓器自体はメタリックで美術的、全般に無機質なヴィジュアルは、恐らく敢えて古典的なSFのそれを踏襲している。臓器販売会社の清潔で機能的な構造と、中盤以降にレミーが潜伏する貧民街や、廃墟と化した都市の雰囲気とが見事なコントラストを形成していることからも、狙っているのは明白だろう。

 また、支払の滞った人工臓器の回収、という趣向が不気味さを醸成するに留まっていた『REPO! レポ』に対し、本篇は設定自体を物語のなかで徹底的に活かしており、構成の面では格段に秀でている。レミーの側から、高額なローンの締めつけの厳しさ、臓器販売会社の冷酷さをたっぷりと描いているだけに、立場が逆転したあたりからの悲愴感、切実さは説得力充分だ。

 本篇はもともと、『マッチスティック・メン』の原作を手懸けたエリック・ガルシアが執筆した短篇を下敷きに、ガルシア本人と、彼と交流のあったシナリオライターであるギャレット・ラーナーが時間をかけて脚色したものだが、ガルシアはそれと並行して、小説版も執筆している。日本では本篇の公開に半年ほど先駆けて訳出されており、読んだ上で本篇を鑑賞したのだが、この両者の差異がなかなかに興味深い。

 小説版ではレミーは複数の女性と結婚、離婚を繰り返しているのを、映画ではキャロルひとりにその役割を集約していたり、個々の“回収業務”に異なる特色を添えたりと細かな圧縮や改変を施しているが、基本的な構造は途中まで変わりない。原作者が深く関わっているだけに、小説を先に読んでイメージを膨らませていても、ほとんど違和感を覚えない点は、こうした映画ではちょっとユニークな特徴と言えるだろう。

 だが、レミーが潜伏して暮らしはじめたあたりから、物語は原作からじわじわと分岐し、最後にはまったく種類の異なる結末に収束していく。特筆すべきは、この映画独自の顛末である。

 あまりSF映画に馴染みのない、せいぜい大ヒットした大作映画ぐらいしか観ない、という人なら度胆を抜かれるか、「はぁ?」と首を傾げたくなるかも知れないラストだが、その実決して珍しい趣向ではない。類例は幾つか思い浮かぶし、注意深く鑑賞していれば事前に気づくことも可能だ。

 しかし、観終わったあとで検証してみれば、さりげなくも大胆に伏線を仕掛けていること、表現の変化の絶妙なことに膝を打つに違いない。恐らく映画好きならば、終盤の表現に違和感を抱くはずだが、実のところそれさえも狙いの範疇であろう。

 もうひとつユニークなのは、同じ土台から別のストーリーを築いていったように見えるけれど、解釈によっては本篇は、小説版と表裏一体になっている、とも捉えられるのだ。少々勘繰りすぎかも知れないが、意図してそういう楽しみ方さえ用意していたのだとしたら、賛嘆すべき遊び心である。

 非常によく練られたディストピアSFで、普通に描けば暗澹とした物語になっただろうが、全体に鏤めたブラックユーモアと、語り手であるジュード・ロウの洒脱さが快い軽さを添えて、完成度は高いが決して晦渋な印象を与えない。優れたアクションと練り込まれたアイディアを堪能させながら、娯楽作品としてのゆとりも備えている、良質の1本である。もし本篇がツボに嵌ったのなら、是非とも小説版を併せて読むことをお薦めしたい――きっともっと深い楽しみ方が出来る。

関連作品:

REPO! レポ

マッチスティック・メン

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コメント

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