ヴードゥーの悪魔

ヴードゥーの悪魔 ヴードゥーの悪魔』

ジョン・ディクスン・カー/村上和久[訳]

John Dickson Carr“Papa La-Bas”/translated by Kazuhisa Murakami

判型:四六判ハード

レーベル:Vintage Mystery Series

版元:原書房

発行:2006年2月20日

isbn:4562039809

本体価格:2400円

商品ページ:[bk1amazon]

 カー愛好家の多い日本において唯一未訳のまま残されていた、カー最晩年のニューオーリンズ三部作第一章を、オリジナルの発表から38年を費やして遂に翻訳出版したものである。

 1958年。英国領事としてニューオーリンズに着任しているディック・マクレイは復活祭も終わった4月14日、旧家の夫人イザベル・ド・サンセールの訪問を受ける。マクレイの友人でもあるトム・クレイトンとの縁談が持ち上がっている夫人の娘マーゴが、ここに来て過去の因縁話に関心を示していることを憂えて相談に来たのだが、やがてジューダ・P・ベンジャミン上院議員も交えることとなった会談の席は、突如窓から投げ込まれたものによって中断させられた。同日、領事館に新たに赴任したハリー・ラドロウを連れて行った仮面舞踏会の会場でマクレイは、密かに潜りこんでいたマーゴと、彼女に手を貸すために訪れていたアーシュラ・イードと遭遇、イードと共にマーゴの馬車を追う羽目に陥る。だが、マクレイたちが極限まで注意を払って見守っていた馬車が着いてみれば中にマーゴの姿はなく、ド・サンセール邸では遂に死者が出た。ヴードゥーの秘術の影がちらつくこの事件、糸を引いているのはいったい誰だ?

 訳出されたというその一事だけでも言祝ぐに値する本書だが、正直に言って不安はあった。比較的レベルの低い作品であってもわりあい訳されるくらいコアな支持者の多い日本で、これまで翻訳出版が叶わなかったということは、或いは読むに忍びない出来の代物だったのでは、という想像も出来たからだ。

 一読、それは考えすぎだと判明したが、逆にどうして訳出されなかったのかが不思議に思える。確かに全盛期ほどの冴えはないし、同じ歴史ミステリでも手に染めた初期の長篇のほうが熱気もヴォリュームもある。だが、カーらしい怪奇趣味とスラップスティックな風合い、毎度ながらのロマンスの味付けも施したうえで、巧みに張り巡らせた伏線を解く結末のカタルシスも用意されており、読み応えは充分だ。作中時間で僅か三日程度の出来事だが流れは速く密度も濃く、娯楽小説として完成度は高い。

 仕掛けそのものも、やはり全盛期とは比べるべくもないにせよ、如何にもカーらしい創意と捻りがあって唸らされる。とりわけヴードゥーの秘術の扱いと、犯人に関する伏線の大胆さなど、仮に見抜けたとしてもその堂々たる処理に感心こそすれ失望はしないはずだ。

 事件を追っているあいだはいまいち、この時代を背景にする必然性に欠くように感じられたのだが、それさえ決着してみると考慮されていたことが解り膝を打った。また、カー自身の手による“好事家のためのノート”には執筆にあたって参考とした資料と、モデルとした実在の人物に言及しており、ニューオーリンズの歴史に詳しくないであろう大部分の読者に、敢えてこの時代を選んだ理由をも間接的に表明している親切さといおうか知己といおうか、そういう側面を覗かせているのもいっそ微笑ましい。

 どうしても時代がかってしまう文章と、いまとなっては芝居がかりすぎてわざとらしい会話や話運びのために、カーやその周辺の時代・ジャンル以外の読者には間違いなく取っつきにくい代物にはなっているが、その辺に抵抗のない読者であれば楽しめること請け合いの一冊だと思う。ずっと未訳であったことなど意識せず、虚心に読むのが一番いいだろう――これだけ繰り返し触れておいて今更なんだが。

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