『ゾディアック』

原題:“Zodiac” / 原作:ロバート・グレイスミス(Village Books・刊) / 監督:デヴィッド・フィンチャー / 脚本:ジェイムズ・ヴァンダービルト / 製作:マイク・メダヴォイ、アーノルド・W・メッサー、ブラッドリー・J・フィッシャー、ジェイムズ・ヴァンダービルト / 製作総指揮:ルイス・フィリップス / 撮影監督:ハリス・サヴィデス,A.S.C. / 美術監督:ドナルド・グレイアム・バート / 編集:アンガス・ウォール / 衣装:ケイシー・ストーム / 技術監督:ワイン・R.ティッドウェル / 音響:レン・クライス / 音楽:デヴィッド・シャイア / 音楽監督:ランダル・ポスター / 出演:ジェイク・ギレンホールマーク・ラファロ、アンソニーエドワース、ロバート・ダウニーJr.、ブライアン・コックスジョン・キャロル・リンチクロエ・セヴィニー、イライアス・コーティーズ、ドナル・ローグ、ダーモット・マーローニー / フェニックス・ピクチャーズ製作 / 配給:Warner Bros.

2007年アメリカ作品 / 上映時間:2時間37分 / 日本語字幕:杉山緑

2007年06月16日日本公開

公式サイト : http://www.zodiac-movie.jp/

池袋HUMAXシネマズ4にて初見(2007/06/16)



[粗筋]

 1969年7月4日、アメリカ中がお祭り騒ぎに活気づく独立記念日に、事件は起こった。人妻のダーリーン・フェーリーンと若き警察官のマイク・マジョーが逢い引きの最中、突然銃撃されたのだ。マイクは重傷を負いながらも辛うじて生還するが、ダーリーンは還らぬ人となる。

 この凄惨な、けれど決して珍しくない事件は、だが約一ヶ月後にその様相を一変させた。サンフランシスコにある新聞社三社に、犯人と見られる人物からの犯行声明文が届けられたのである。声明は更に昨年の12月、ドライヴインに駐車中の高校生カップルが殺害された事件についても関与を仄めかしており、そこで描かれている情報の正確さから、差出人が連続殺人犯であることは疑いを容れなかった。

 声明文は暗号を同封しており、一面に掲載することを要求していた。上層部が応じるか否かで頭を悩ませている傍らで、サンフランシスコ・クロニクル誌の社説風刺漫画を手懸けているロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)は暗号解読に熱中する。遊びと言えば高校時代に煙草を一本吸ったぐらい、趣味は読書というグレイスミスは、この時点で事件に対して恐怖と共に強い関心を抱いた。

 CIA、FBIアメリカ海軍など専門家が挑んでも解けなかった暗号文は、だが市井の教師夫婦があっさりと解読する。そこに記されていたのは単なる醜悪な自己顕示欲のみであった――しかし間もなく、犯人は新たな動きに出て、本気であることを証明する。ベリエッサ湖畔で戯れていた若いカップル、セシリア・アン・シェパードとブライアン・ハートネルのふたりが、覆面を被り胸に奇妙なマークをあしらった男に襲撃された。ふたりはナイフでめった刺しにされ、やはりセシリアのみが絶命、ブライアンは辛うじて生還する。

 全米のカップルが震撼する中、それから約半月を経た10月、事件は意外な展開を見せる。4度目に犯人が選んだのはカップルではなく、非常勤のタクシー運転手だった。捜査に当たったデイヴ・トースキー(マーク・ラファロ)とウィリアム・アームストロング(アンソニーエドワース)のふたりの刑事は、何故犯人が現場に留まって奇妙な工作をしていたのかを不審に思うが、その答は間もなく、一連のカップル連続殺人と同じ差出人からの声明文というかたちで示された。被害者の衣服の端切れと共に送られた声明文には初めて、犯人の署名が記されていた――“ゾディアック”と。

[感想]

 自らの監督作品としても『パニック・ルーム』から5年振りとなるデヴィッド・フィンチャー監督の最新作が『セブン』以来となるシリアル・キラーを題材とした作品、それもあの“ゾディアック”を扱ったものだというのだから、『セブン』で監督に傾倒した者に期待するなと言うほうが無茶だ。

“ゾディアック”は犯行の規模という点では、テッド・バンディやアンドレイ・チカチーロ、ジョン・ゲイシーなどと比べればだいぶ小粒であるのだが、犯罪史にその名を刻んでいる理由として、新聞各紙に声明文と暗号を送りつけて社会全体を恐慌状態に陥れたということ、そしてある時期を境に沈黙し、遂に未解決のまま現在に至っていることが挙げられる。あれほど大々的に報じられながら、“ゾディアック”と署名した人物はけっきょく捕らえられていないのである。

 未解決の事件を扱う場合、筋の通った解釈に基づいて、フィクション的に事件を再構築して独自の解決を提示するか、ノンフィクションに迫る手法として未解決のまま処理するかのいずれかになる。前者の近年における代表格は『ブラック・ダリア』がある。だが本編では意識的に後者を選択している。

 それ故に、解決編があることで齎されるカタルシスを期待すると肩透かしを食う。本編の眼目は、実際に事件に執着した挙句、結果として家庭を崩壊させてしまった漫画家の視点を軸にしつつ、“ゾディアック”というものに翻弄されるアメリカ社会と、“彼”によって人生を狂わされた人々の姿を描き出すことにあるのだ。

 フィンチャー監督と言えば、体内からカメラが飛び出してきたり手すりのあいだをすり抜けたりといったトリッキーなカメラワークを駆使したスタイリッシュな映像作りがすぐに思い浮かぶが、今回意識してそうしたものを封印し、極力オーソドックスに、生々しく撮ることに腐心したという。構図や色遣いに相も変わらぬセンスの高さは窺わせながら、実際本編のカメラワークは概ね基本に則っている。だからこそ、淡々とした感情描写、提示されていく情報に集中できるようになっている。たとえば誰かの失態によって事件が迷宮入りした、などと糾弾するのではなく、あくまで冷静に事実を連ねていき、じわじわと事件の全体像を明らかにしていく。そのさまは、純粋にドラマとして撮影しながらどこかドキュメンタリーを彷彿とさせるほどだ。

 しかしこの事件の本当の主役たる“ゾディアック”の正体は、追えば追うほどに曖昧模糊としていくのがよく伝わる。途中、有力な容疑者もきちんと登場しながら、状況証拠のみであり、信頼が置かれていた証拠とは致命的な食い違いを示したために追求が不可能となる。警察が八方塞がりに陥るなかで、序盤から傍観者として関わっていた物語の語り手たる風刺漫画家が、結果的にいちばん情報を得やすい立場に置かれ、終盤ではまるで警察さながらの活躍を見せる倒錯した状況にまで発展する。実際、この漫画家は真相に肉薄していったように見えながら、警察が辿っていったのと同じ隘路に嵌って、けっきょく真犯人に到達できない。

 犯人の姿を一目確かめたい、と念じた人々は、思い入れが強いほどに人生を掻き乱されていく。漫画家と親しくなった記者は酒浸りになった挙句、常軌を逸した言動が増えて、とうとう格下の別新聞社に鞍替えさせられ、刑事は長い捜査に疲れ果て、或いは問題を抱えて異動を余儀なくされる。漫画家もまた、真実を知りたいと念じるあまりに派手な行動に及び、“ゾディアック”の復讐に怯える妻と軋轢を起こして、家庭を崩壊させてしまう。いずれも、あまりにひとつのことに囚われすぎた人間が辿りがちな末路の典型ではあるが、それを淡々と、克明に捉えていく描き方は着実で、あとになればなるほど息苦しい余韻を齎す。

 本編は最終的に、恐らくこれがいちばん真相に近いのでは、と思われる事実を仄めかして幕を下ろすが、だが列挙された証拠は相変わらずそれを否定しており、やはり真実は闇の中に置き去りにされたままだ――しかし、その結果として描き出そうとしたことは、実は『セブン』に近い。いずれも、犯罪というものにあまりに深く関わりすぎた者が辿る道を剔出し、その業の深さを描いているのだ。

 確かに、解決するからこそ齎されるカタルシスはない。しかし、登場人物と一緒になって、齎される情報を整理し、自らも捜査に臨んでいるつもりで鑑賞すれば、その結末に静かで重い衝撃を受けるはずである。単に、未解決事件に新たな光を当てただけに留まらない余韻をはっきりと齎す本編は、いわばデヴィッド・フィンチャー版『藪の中』であると思う。

 漫然とカタルシスだけを求める観客には不向きだが、噛みしめれば噛みしめるほどに深い味わいの拡がる、良質の傑作であることは間違いない。

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