『ナイト・トーキョー・デイ』

『ナイト・トーキョー・デイ』

原題:“Map of the Sound of Tokyo” / 監督&脚本:イザベル・コイシェ / 製作:ジャウメ・ロウレス / 製作総指揮:ハビエル・メンデス / 撮影監督:ジャン=クロード・ラリュー / プロダクション・デザイナー:杉本亮 / 編集:イレーヌ・ブレクア / 録音:アイトール・ベレンゲール、ファビオラ・オルドヨ、マーク・オーツ / 出演:菊地凛子セルジ・ロペス田中泯中原丈雄榊英雄 / 配給:ディンゴ

2010年スペイン作品 / 上映時間:1時間38分 / 日本語字幕:? / R-15+

2010年9月11日日本公開

公式サイト : http://www.night-tokyo-day.jp/

新宿武蔵野館にて初見(2010/09/30)



[粗筋]

 築地魚河岸の夜間業務に従事しているリュウ(菊地凛子)という女には、殺し屋というもうひとつの顔がある。相手の素性を探ることなく、金で依頼を引き受け、淡々と命を奪う。週末には時折、そうして手にかけた人物の墓を、唯一の友人である録音技師(田中泯)とともに訪れる。墓石を清掃するときだけ、彼女は仕事のときの記憶を蘇らせた。

 彼女の新たな依頼主は、石田(榊英雄)という男。ダビ(セルジ・ロペス)という男を殺して欲しい、という話だった。半額を前金で受け取ったリュウは、まず標的に接触を図る。

 ワインの販売店で働くダビは、店を訪れたリュウに、直感で一本のワインを勧めると、彼女を夕食に誘った。彼は1ヶ月前、愛する女性・ミドリを失った苦しみに、何をしでかすか解らない恐怖を覚えていた。ミドリは自らの手首を切り、滴る血で鏡に「私があなたを愛するほど、あなたは私を愛してくれなかった」というメッセージを書きつけてこの世を去ったのだ。充分に愛したつもりでいたダビは、深い心の傷と共に、無為に生き長らえているようなものだった。

 一緒にラーメンを啜り、僅かながらも言葉を交わしたあと、リュウはダビに誘われるままラブホテルに入り、彼に抱かれる。行為のあと、隠し持っていた拳銃を手にしたが、撃つことは出来なかった。

 それからもリュウはダビと逢瀬を繰り返す。ダビは率直に、恋人ミドリのことを想いながら彼女を抱いたことを打ち明けるが、それでもリュウは拒まなかった。既にリュウに、ダビを殺す意志は失われていた。

 だが、依頼人の石田は契約解除の申し出を拒絶する。彼はミドリの父・長良(中原丈雄)の部下であった。ミドリを失った痛手に長良は打ちひしがれ、最近は仕事もろくに出来ない状態に陥っている。そして石田自身、密かにミドリのことを慕っていた。ミドリを追い込んだダビを、許すことなど出来るはずもなかったのだ……

[感想]

 海外の監督が日本を舞台に映画を撮ると、日本人の目には違和感を抱く仕上がりになる、とはよく言われることだが、しかしこれは当然のことだろう。監督の主観、或いはテーマを奈辺に選択するかによって、モノの見え方は大きく変わってくる。これは決して海外の監督に限ったことではなく、日本人の監督が日本を舞台に描いても、そこには監督や製作陣の主観や、テーマに沿ったバイアスがかかっている。ただ、そのバイアスが日本人の常識や感性の枠に嵌りやすいから違和感を覚えにくい、というだけの話だ。それでも人によっては不自然さを感じることはある。

 本篇を手懸けたイザベル・コイシェ監督はスペイン出身だが、ご多分に漏れず、日本贔屓であるらしい。それ故に、他の海外の監督とは異なったロケーションを選択する傾向があるようだが、しかし日本人の感覚からするとやはり“観光気分”という印象が拭えない。何せ、実質的な語り手となる録音技師が主人公リュウと出逢うのは横浜のラーメン博物館だし、リュウが石田と直接逢い、前金と資料を受け取る場所は浅草の花やしきである。どちらも、日本人の感性からすると、情感豊かなドラマや、人の生き死にを扱う物語で登場させるのは少々似つかわしくない、と判断するだろう。リュウの個性を表現するのに“ラーメンを啜る音”を選んだり、かつてダビが恋人ミドリと繰り返し訪れ、のちにリュウとの情事に用いるラブホテルの個室を、電車をモチーフにした部屋に設定するあたりなど、特異なセンスだ。ただ、他の海外の監督よりも、生活感をある程度巧みに捉えていることは確かだろう。

 しかし本篇では、そうした生活感のある場所、行動を随所で示しながら、そうすることでリュウの奇妙に生命力のない暮らしぶりをじんわりと浮き彫りにしていく、という手法を取っている。選択した舞台が何処か卑近で雑多で、独特の生命力に溢れているからこそ、そこに腰を据える場所がないリュウの居心地の悪さを感じさせ、似たような境遇にあるダビとの共鳴に繋がっていく。ある程度日本という風土を理解しているからこそ出来る手法で、そう考えていくとやはり一筋縄ではいかない作品なのだ。

 非常に緻密に作りあげられたことを窺わせるが、しかしその一方で、観終わったときの異様な虚しさに戸惑い、物語として失敗している、と感じる人もいるかも知れない。事実、物語の締め括りに何かが実を結び、ほのかでもカタルシスを演出することを望んでいる人にとっては、この作品に観るべきところはない。

 だが、終盤で語り部である録音技師が言うように、この物語は実のところ、始まった時点で何もかもが手遅れなのだ。誰かが全体像を把握して、自発的に悲劇の連鎖を食い止めるような行動に出ていれば或いは、とも思えるが、本篇はそういう神の救済、とでも呼ぶべきような終わりを求めていない。いわば虚無から現れて虚無へと戻る、そういう感覚を描こうと試みていた作品であり、そう考えればまったく着地点に狂いはない。

 この物語の中で、或いは誰よりも多くのものを得たのは、リュウだったかも知れない。他の人物はすべて、空虚な現実、無為に期した行動に蝕まれ、心に空洞を生み出したことが察せられる。その如何ともし難い空虚感が、本篇の辿り着きたかった境地なのだろう。日々の営みが無に帰し、空っぽのまま生きていく悲しみが、本篇のラストーんには濃密に漂っている。

 どうしてもカタルシスなど得られるはずがなく、そういったものを求める人には薦めることは出来ない。かといって、表現を解釈し掘り下げていくことを好むような人であっても、本篇のような“何も得るものがない”終幕を許せない人もいるだろう。だから、正直なところどういう人なら薦めていいのか判断に困るのだが、決して安易に日本文化を採り上げようとしたのではなく、理解した上で、丹念に練って作りあげた作品であることは保証してもいいだろう。この空虚な結末から何を導き出すのか、それは多分観た人次第だ。

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コメント

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