『少年は残酷な弓を射る』

TOHOシネマズシャンテ、壁面の大型ポスター。

原題:“We Need to Talk about Kevin” / 原作:ライオネル・シュライヴァー(イースト・プレス刊) / 監督:リン・ラムジー / 脚本:リン・ラムジー、ローリー・スチュワート・キニア / 製作:リュック・ローグ、ジェニファー・フォックス、ロバート・サレルノ / 製作総指揮:スティーヴン・ソダーバーグ、クリスティーン・ランガン、ポーラ・アルフォン、クリストファー・フィッグ、ロバート・ホワイトハウス、マイケル・ロビンソン、アンドリュー・オル、ノーマン・メリー、リサ・ランバートリン・ラムジーティルダ・スウィントン / 撮影監督:シーマス・マッガーヴェイ / プロダクション・デザイナー:ジュディ・ベッカー / 編集:ジョー・ビニ / 衣装:キャサリンジョーンズ / 音響デザイン:ポール・デイヴィス / キャスティング:ビリー・ホプキンス / 音楽:ジョニー・グリーンウッド / 出演:ティルダ・スウィントン、ジョン・C・ライリー、エズラ・ミラー、ジャスパー・ニューウェル、ロック・ドゥアー、アシュリー・ガーラスモヴィッチ / 配給:KLOCKWORX

2011年イギリス作品 / 上映時間:1時間52分 / 日本語字幕:佐藤恵子 / PG12

2012年6月30日日本公開

2012年12月21日映像ソフト日本盤発売 [DVD Video:amazon]

公式サイト : http://shonen-yumi.com/

TOHOシネマズシャンテにて初見(2012/08/29)



[粗筋]

 エヴァ(ティルダ・スウィントン)が目醒めたとき、光は深紅に染まっていた。何者かが彼女の暮らす小さな一軒家に、赤いペンキを叩きつけていったせいだった。

 彼女にとってこの街はもはや、暮らしやすいとは言い難い。距離を置いて接してくれるならまだしも、あからさまな憎悪の眼差しを向け、出会い頭に平手打ちをする者さえいる始末だった。それでも、ここで職を求めてでも居続ける理由はただひとつ、まだ近くに我が子、ケヴィン(エズラ・ミラー)がいるからだった。

 かつてエヴァは、各地を旅し、その手記を発表する記者だった。フランクリン(ジョン・C・ライリー)と恋に落ち、妊娠するまでは幸せだったが、何故かエヴァは他の妊婦のように浮かれる気にはなれない。

 ようやく生まれたケヴィンは、だが母親には一向に懐こうとしない。抱きかかえても泣きやまず、呼びかけても応えない。父親には大人しく抱かれ、素直に応えるというのに、何故かケヴィンはエヴァにだけ反抗する。その様子はまるで、敵愾心を燃やしているようにも映った。

 やがて妹のセリア(アシュリー・ガーラスモヴィッチ)が生まれた。屈折した態度ばかり示すケヴィンに対し、天真爛漫なセリアはエヴァの心を癒してくれたが、美しく成長したケヴィンは未だ、心に悪魔を宿しているかのようだった。彼の悪意はフランクリンの目からは巧妙に隠され、エヴァの心だけを蝕んでいく。そして、遂にあの事件は起きたのだった……

 いったい、何処でボタンを掛け違えたのだろう? 或いは、どこも掛け違えていないのだろうか……?

[感想]

 ありそうでいて、意外と類例の思いつかない視点から、本篇は描かれている。つまり、罪を犯した人間の家族の目線である。

 やもするとセンセーショナルになりそうな題材だが、本篇はメインであるエヴァの心中について過剰に立ち入らない、節度のある距離感を保つことで、その衝撃を巧みに軽減している。

 軽減している、と言い条、しかし内容自体に容赦はない。犯罪者の母親として白眼視され、嫌がらせを受け、それでもコミュニティに踏みとどまらねばならない。そして、その立ち位置から振り返る形で語られる、息子との歪んだ歴史にも、救いの光はちらつきさえもしない。

 この作品でとりわけ唸らされることは、エヴァとケヴィンの関係が何故ここまで破綻していたのか、過去の描写からは明白にならない、という点だ。ぼかしているわけでも、秘密にして牽引しようとしているわけでもない。視点人物であるエヴァには、本当に皆目検討がつかないのである。まるで、産む前から抱いていた不吉な予感が的中し、どんどんと悪いほうへ転がっていったかのような成り行きだ。

 しかし、何故、がまったく語られないからこそ、そこにはある種の疑問が生じる。果たして、エヴァとケヴィンは、出逢った瞬間から相容れない存在だったのか。ケヴィンは本当に、エヴァに対して悪意を抱いていたのか?

 本篇の切り口を眺めると、ケヴィンの振る舞いにはまるで、度を著しく過ごした駄々っ子のような印象があることに気づくはずだ。確たる理由もなく、自分に対して精神的に距離を置いているエヴァに、過度の甘えを含んだ反抗をしている、そんなふうにも取れる。常態化した反抗はいつしか当初の目的、意図を見失い、考えうる最悪へと着地した。

 そうやって考えると、ラストシーンにおけるケヴィンの変化にも納得がいく。エヴァがケヴィンに対して、関心がない状態でも、恐怖を抱いているわけでもなく、むしろ一種依存したかのような関係性になって、ケヴィンの暴力性が発揮される理由が失われた。最後にケヴィンが垣間見せた弱さ、エヴァが立ち去るシーンの不思議な清々しさは、そうしたものを象徴しているのかも知れない。

 ……と、語ってしまったが、これはあくまで私の解釈に過ぎない。ケヴィンの“悪魔性”について、もっと宗教的な捉え方も出来るだろうし、彼の動機についても、様々な解釈が可能だろう。そのくらい、本篇では何ら明らかにしていない。

 恐らく、そうとう苦心の末に生まれたであろう邦題も悪くはない。しかし原題の、それ自体が台詞のような響きは、観終わってからいっそう切実に胸の中で轟くはずだ。私たちは、ケヴィンについて話さねばならない。そういう気分にさせる、静かでありながら饒舌な作品である。

関連作品:

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バーン・アフター・リーディング

おとなのけんか

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母なる証明

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