鮎川哲也『マーキュリーの靴 三番館全集第2巻』

鮎川哲也『マーキュリーの靴 三番館全集第2巻』(Amazon.co.jp商品ページにリンク) 『マーキュリーの靴 三番館全集第2巻』
鮎川哲也
判型:文庫判
レーベル:光文社文庫
版元:光文社
発行:2023年3月20日
isbn:9784334795078
本体価格:1100円
商品ページ:[amazon楽天BOOK☆WALKER(電子書籍)]
2023年9月11日読了

 作家生活を通して本格推理に全精力を注いだ著者が晩年に多く著した《三番館》シリーズを、4分冊でまとめた文庫版全集の第2巻。交通事故を契機に友人たちから賭け麻雀の勝ち分を徴収しようとした男の死を巡る『走れ俊平』、身に覚えのない詐欺事件の容疑を被せられた女性が更に殺人の疑いをかけられる『分身』、雪の翌朝にペントハウスにて密室の状況で殺害された女性の犯人を捜す表題作ほか全11篇を収録。
 前巻の感想は収録作各篇について言及した結果、やたら長ったらしくなってしまったので、今回はざっくりと触れることにした。なにせ前巻より4篇、収録作品が増えているので、いちいち語ると本当に長くなってしまう。
 収録作品が増えたのは、中篇規模の作品が多かった前巻に対し、本書はおおむね紙の文庫版の文字組みで50~60ページ程度にまとまっているためだ。スケール感は薄れたが、著者らしい地道な調査と、三番館のバーテンによる鮮やかな推理の心地好さが、ほどよい尺の中で楽しめる体裁がここで完成された感がある。
 しかしそれでも本格推理ひと筋の職人だった著者らしく、各篇で導入に変化を加え、アリバイものに双子の事件、更には王道の雪の密室まで、本格推理ものお馴染みの趣向が仕掛けに施されている。この1冊で、本格ものの定番と言える趣向はほぼほぼ網羅している気さえする。
 一方でシリーズとしての統一感、個性も確立されてきた。常に金欠で汲々としながらも女遊びやパチンコを嗜み、自身の武骨さを自覚しつつ気取ることも忘れない《探偵》、肥満体で汗を掻き掻き探偵の前に現れては難事件の調査を持ちかけてくる弁護士、カクテル作りの腕前は凡庸だが、鷹揚とした姿勢で、調査に行き詰まった探偵を鮮やかな推理で救う《バーテン》、この三人に加え、三番館の常連も時として交えたやり取りが楽しい。特に探偵と弁護士のやり取りは、飯の種を持ち込んでくれる弁護士に気を遣いつつ、駄洒落としか言いようのないボケまで混ざってきて、ちょっとした漫才の様相である。題材や固有名詞の古めかしさは否めないが、その時代性も含めてこのシリーズの味わいであり、そのパターンが本書の収録作ではほぼ固まっている。
 幕引きの趣向が毎回違うのも面白いところである。バーテンの推理で幕を引いてしまう場合が多いが、そのあとに探偵が旧知の刑事に情報を提供して締めくくることもあれば、武闘派の探偵が立ち回りを見せて決着する場合もある。良くも悪くもお行儀の良かった鬼貫、星影ものでは出来なかった、大衆小説的な趣向をあえて入れているあたりにも、著者の工夫が窺える。もしかしたら、従来のシリーズには似つかわしくないこうした描写を楽しんでいたのかも知れない。
 ベストを選ぶのは難しいが、珍しく冒頭から探偵が登場して意外な展開を見せる『夜の冒険』、トリック自体はけっこう定番なのだが、実は見せ方に本格推理ひと筋の職人ならではの工夫がある表題作あたりに唸らされた。大衆小説的な趣向、という意味では『屍衣を着たドンホァン』が印象を残す。

 本書の収録作品が執筆されたのは1975年から1980年、50年近く経つと社会の見方や価値観も変わってくる。いま読むと偏見としか言いようのない表現も多々見受けられるが、これだけ時間が経ったのなら、むしろそれもひとつの読みどころとして捉えるべきだと思う。
 しかしそう言いながらも、『X・X』冒頭では読みながら複雑な想いに駆られてしまった。若い警官が書類を直接届けるため、塗料会社の社員寮を訪ねるくだりがあるのだが、警官は自身の暮らす寮と比較して、鉄筋コンクリート製の作りを羨む。そこで、地の文のなかで綴られる彼の感想が、“仮りにマグニチュード8くらいの直下型の地震があったとしても、この独身寮はビクともしまい。”とある。
 本篇の発表は1976年。東日本大震災どころか、阪神淡路大震災もまだ先だ。マグニチュード8前後の凄まじさを、この当時はまだ知らなかったのだから、冗談めかした表現になるのも無理からぬところではある。他の描写でもしばしばあるが、時間の隔たりを特に強く感じる一節だった。

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