TOHOシネマズ日本橋の入っているコレド室町2入口脇に掲示された『ウエスト・サイド・ストーリー(2021)』ポスター。
原題:“West Side Story” / オリジナル戯曲:アーサー・ロレンツ / 監督:スティーヴン・スピルバーグ / 脚本:トニー・クーシュナー / 製作:クリスティ・マコスコ・クリーガー、ケヴィン・マッカラム、スティーヴン・スピルバーグ / 製作総指揮:トニー・クーシュナー、ダニエル・ルピ、リタ・モレノ、アダム・ソムナー / 撮影監督:ヤヌス・カミンスキー / プロダクション・デザイナー:アダム・ストックハウゼン / 編集:サラ・ブロッシャー、マイケル・カーン / 衣装:ポール・タズウェル / キャスティング:シンディ・トラン / 音楽:レナード・バーンスタイン / 出演:アンセル・エルゴート、レイチェル・ジグラー、アリアナ・ディボース、デヴィッド・アルヴァレス、リタ・モレノ、ブライアン・ダーシー・ジェームズ、コーリー・ストール、マイク・フェイスト、ジョシュ・アンドレス・リヴェラ、アイリス・マナス / 配給:Walt Disney Japan
2021年アメリカ作品 / 上映時間:2時間36分 / 日本語字幕:石田泰子
2022年2月11日日本公開
公式サイト : https://www.20thcenturystudios.jp/movies/westsidestory
TOHOシネマズ日本橋にて初見(2022/2/12)
[粗筋]
1950年代のニューヨーク、再開発計画により次第に行き場を失いつつあったスラム街で、ふた組の不良グループが日々、睨み合いを続けていた。
一方は《ジェッツ》。ヨーロッパの移民と白人とのあいだに生まれた、貧しい家庭環境に育った少年たちで構成されている。他の新たなチームをその都度制圧してきたことを誇っている。
対するは《シャーク》。プエルトリコから移り住んだ少年たちのグループ。アメリカでの成功を夢見る者といずれ郷里に帰りたいと考える者に分かれるが、生き抜くため《ジェッツ》の向こうを張っている。
このグループたちがしばしば小競り合いを起こし、街を騒がせることを警察は快く考えていなかった。友好のため、ジムで催されるダンス・パーティへの参加を求められた両チームは、依然として対抗心を露わにしながらも求めに従う。
《ジェッツ》のリーダー格であるリフ(マイク・フェイスト)は、トニー(アンセル・エルゴート)にも参加するよう促した。トニーは決闘で相手を半殺しにしたことにより刑務所で1年を過ごしたことを契機に、チームを離れ、ヴァレンティナ(リタ・モレノ)が営むドラッグストアを手伝っている。しかしリフたちチームの面々に仲間意識は持っており、不承不承ながらパーティ会場に赴いた。
緊張感を孕みながらも盛り上がる会場で、トニーは1人の女性に目を奪われる。互いに誘われるように向かった物陰で、彼女はマリア(レイチェル・ジグラー)と名乗った。惹かれ合う想いを隠せない2人だったが、人目を忍ぶマリアを見咎めた《シャーク》のリーダー格・ベルナルド(デヴィッド・アルヴァレス)によって連れ出されてしまう。
あろうことか、トニーが一瞬で恋に落ちたマリアは、ベルナルドの妹だった。夜の街に彼女の姿を追い求めたトニーは、マリアと再会を果たし、想いを確かめあう。しかし、貧困に喘ぐこの地域で対立する共同体に属するふたりには、困難が待ち受けていた――
[感想]
映画好きなら、『ウエスト・サイド物語』といえばまず、1961年にロバートワイズが振付師のジェローム・ロビンスとともに監督した作品を思い浮かべるはずだ。もとはブロードウェイ・ミュージカルとして大ヒットを遂げた作品をベースにしたもので、いまや映画においてもミュージカルの金字塔として未だに愛好されている。
往年の名作がしばしばリメイクされる映画界において珍しいことに、この作品は長年、映画として撮り直されることはなかった。そもそも、評価の高い作品を、技術力が上がったとはいえ改めて作り直すこと自体が大きなリスクなのだが、ミュージカルの場合は更に歌やダンスのクオリティも問われるからか、特にミュージカルはリメイク、再映画化という話を聞かない
もっともその背景には、ミュージカル映画そのものが斜陽を迎えていたことも挙げられよう。翻って、『シカゴ(2002)』から『ラ・ラ・ランド』、『グレイテスト・ショーマン』といったミュージカル作品の成功があって、ようやく後押しを得られたとも考える。
だが、何よりも大きいのは、スティーヴン・スピルバーグが製作・監督として携わったことではなかろうか。デビュー以来、エンタテインメント作品で幾つも大ヒットを飛ばし、『プライベート・ライアン』や『シンドラーのリスト』など、文芸的な作品でも高い評価を得てきた彼が自ら指揮を執っていればこそ、暗礁に乗り上げることなく完成へと漕ぎ着けた。
だが、無事に完成したからと言って、成功作になるわけではない。具体的に作品名を挙げることはしないが、やはり映画史に残る名作を現代の映像表現や演技の方法論で撮り直したある作品も、興行的、批評的には大いに不満の残る結果だった――私の見立てでは、現代にふたたび撮る方法論としては正しかったのだが、高くなりすぎた理想を超えるのは難しい、ということだろう。
そう考えると、本篇の凄みが解ろうというものだ――本篇は、あまりにも高名な作品の再映画化、という命題に求められるものをすべて高い水準でクリアしてしまった。
1961年版は金字塔と呼ばれる傑作とはいえ、現代の目線からは大きな問題がある。白人のグループとプエルトリコからの移民の対立を背景としながら、プエルトリコ側に合わない人種の俳優が起用されていた――個人的には、ダンスの技倆を満たす俳優の必要性や、そもそも生活背景から考察してなりきるのが俳優なのだから、実際の人種は大きな問題ではない、と考えるが、人材豊富なハリウッドならば、役柄に沿った人種を起用するのが自然とも言える。こと、そうした論調は近年に顕著で、本篇はその点、不自然さのない配役が行われている。国際的には決して知名度の高くない俳優が多く起用されているが、恐らくそこには、物語と楽曲のクオリティさえ確かなら、知名度より演技力や歌唱力、ダンスの技術を重視すれば問題はない、という発想があったのではなかろうか。事実、本篇は俳優の知名度など気にすることなく没頭出来る――むしろ、決して馴染み深くないキャストを揃えていればこそ、作品世界にのめり込みやすくなっていると思う。
また、リメイクが行われると、稀なパターンではあるが、出来映えの良さ故に、オリジナルが無意味に感じられる場合もないわけではない。トム・クルーズ主演の『バニラ・スカイ』はリメイクとしてそつのない出来だったが、音楽の使い方やエンディングの余韻を除くとほぼほぼ作りが一緒なので、オリジナルにあたる『オープン・ユア・アイズ』と続けて観ると、一般的な観客には共存している意味がなくなってしまう。ある程度、創作に携わっている人なら、細かな表現の違いや、ニュアンスの変化を楽しむことも可能だが、決して万人が出来る受け止め方ではない。
その意味でも本篇は理想的だ。本篇は、用いる楽曲はたとえ映画やミュージカルのファンでなくても聴いたことのあるようなお馴染みのものだが、本篇では1961年版と曲順や使われる舞台を変更し、旧作の価値を遺したまま新たな表現を試みている。
実のところ、1961年版も、原作であるブロードウェイ・ミュージカルと曲の扱い方を変えている、という。つまりはこれも、1961年版の美点を正しいかたちで受け継いでいる、と言えるわけだが、本篇ではその脚色、表現の調整の的確さにも驚かされる。1961年版では終盤、悲劇に遭遇した少年たちが、自らを落ち着けようとしながらも復讐の想いを募らせるさまを表現していた『Cool』という楽曲は、その悲劇の手前で、決闘の手前に興奮する仲間たちに冷静になるようトニーが説得に赴くくだりで使われている。また、本篇で最もコミカルな『Gee, Officer Krupke』は、1961年版では題名にもなっているクラプキ巡査を少年たちが直接からかう場面で用いられるが、本篇においては、クラプキ巡査が不在の警察署内で、少年たちが警察官たちをあの手この手で懐柔するさまを妄想しているくだりに使われる。いずれも、どちらの方が的確に思うか? は好みでしかなく、やはり1961年版の方が合っている、と感じる人も少なくないだろう。しかし、そういう選択の余地があるのも、1961年版が取った選択に敬意を表し、同じ物語であっても新たな魅力を生み出そうと試行錯誤した本篇の成果だ。
また、同じシチュエーションで展開される場面も、その舞台をより広範囲にリアルに仕上げたり、ダンスに動員するキャストを大幅に増やし、ダイナミックな振りがシンクロする爽快感を増したり、と工夫が豊かだ。個人的に、1961年版のプロローグのような、ワンカットでダンスの緻密な構成と優れたテクニックを満喫させる趣向がなかったのは残念ではあるが、そのぶん本篇のミュージカル・パートはひとつ残らず、1961年版よりも華やかに、そして説得力に富んだものになっている。トニーがパーティ会場で出会ったマリアの名を呼びその姿を探し、巡り逢うくだりを立体的なセットで描きだした『Maria』のパート、同じプエルトリコ出身者のなかでも対立する意見を軽快かつ豪勢な構成で魅せる『America』、そして《ジェッツ》や《シャーク》の面々とトニー、マリア、そしてアニタ(アリアナ・ディボース)の思惑が同じメロディ、テーマで複雑に絡みあう『Tonight (Quintet)』など、向上した美術や特撮技術、小型化して自由度を増したカメラワークを活かし、間違いなく1961年版では出来なかった演出、手法でシークエンスとしてより見応えのあるものに育て上げている。むろんこちらも、1961年版が制約の中で組み立てた映像のほうに魅力を感じるひともいるに違いないが、本篇がそのテーマを疎かにせず、現代に蘇らせる意義のあるものに仕立てたことを否定するひとはあるまい。
火花を散らし合うダンスホールから距離を置いて、階段状の座席の裏で密かに踊るトニーとマリア、決闘の場面で、向かい合うシャッターから入ってくるふたつのチームの影が交錯していくカットなど、そのシチュエーションを象徴的に見せる趣向や構図もふんだんで、映画としての奥行きも豊かだ。特に、1961年版を観たことのあるひとなら、あちらでアニータを演じたリタ・モレノが、今回は雑貨店の店主として若者たちを見守る立場として『Somewhere』を歌うシーンは、彼女の演じるヴァレンティナという女性の仄めかされる過去が1961年版のアニータが重なって、より深い感動を覚えるはずである。
本篇は時代設定も現代に変更することなく、1961年版に近い時代に設定している。しかし、そのなかで繰り広げられる分断と軋轢のドラマは、決して過去のものにはなっていない。コロナ禍によって、国家や人種、民族の対立はしばしば激しさを増しているいまは、本篇の主題が特に心に響く。だが、恐らくそれは本篇の――さらに遡れば、『ウエスト・サイド物語』が原型とする『ロミオとジュリエット』の主題が時を越えて普遍的である証明でもあるのだろう。
だから本篇の凄みは、これからも1961年版を鑑賞する意義を留めながら、確実にその表現を最高のレベルで洗練させ、観るひとによっては歴史的名作である1961年版を超えたクオリティに仕立て上げたことにこそある。多くの人が知っているドラマを、ふたたび感動をもたらすドラマに昇華し、ひとつひとつのダンス・シークエンスを鮮やかで印象深いものに仕上げた。映画界の寵児たスティーヴン・スピルバーグの面目躍如と言える、畢生の1本である。かなり本気で、スピルバーグはこの作品を撮るためにキャリアを積んできたのではないか、とさえ思う。
関連作品:
『ウエスト・サイド物語』/『ロミオとジュリエット(1968)』/『ロミオ+ジュリエット』
『宇宙戦争』/『激突!』/『JAWS/ジョーズ』/『未知との遭遇 ファイナル・カット版』/『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』/『E.T. 20周年アニバーサリー特別版』/『プライベート・ライアン』/『A. I. [Artificial Intelligence]』/『マイノリティ・リポート』/『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』/『ターミナル』/『ミュンヘン』/『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』/『戦火の馬』/『リンカーン』
『キャリー(2013)』/『雨に唄えば』/『ファースト・マン』/『アントマン』
『バニラ・スカイ』/『シカゴ(2002)』/『ラ・ラ・ランド』/『グレイテスト・ショーマン』
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