十一年目の夏に。

 昨晩某イベントを訪れていたら、そのまんまこっちに並ぶつもりだったんだよなー、と感慨に耽りつつ、十時の十五分ほど前に新宿入り。上映開始までまだ一時間ほどあるので、もし行列がずらーっと続いていたら別の作品に切り替えよう、程度の覚悟で歌舞伎町の映画街まで赴いてみると、――列はある、がどうもコマ劇場方面に向いているらしい。広場を挟んで反対側にある目的地に列の姿はない。拍子抜けしつつ近づいてみて、勘違いを悟った。

 もう開場してるよ! 中はけっこーな混雑だよ!! 別に制約も受けずに入っちゃったけど座れるのかていうか一時間近く立ったままで間が持つのか?!

 ……座れました。新宿界隈でもそこそこ映画は観ているはずなのですが、今回訪れたミラノ座は初めて(同じ建物にある系列館には入ったことがある)。よもやまさかここまでキャパの大きい劇場だったとは。あとで舞台挨拶の司会の方が言っていましたが、開場のかなり前から列は出来ていたらしく、それを手早く捌くために早めに開けてしまったのかも知れず。

 作品は、本当にこれだけは無理だろうと思っていた、京極夏彦のデビュー作のほぼ完全な映画化姑獲鳥(うぶめ)の夏』(日本ヘラルド・配給)。果たしてどんなもんか、と不安だらけでしたが、この尺に映像という制約というなかでは大健闘の出来だと思いました。既に読者それぞれにイメージが固まっているはずの主要登場人物を演じた役者もそういうプレッシャーの中でちゃんとキャラクターに馴染んでいましたし、セット中心の時代がかった映像も雰囲気に合っている。省略があるのはもう不可避な話ですし、後半のほとんどが謎解きであるのも推理映画、しかも“憑き物落とし”としてすべての問題を払拭せねばならないという主題故の制約を思えば仕方のない話――詰まるところ、問題点の大半は――この直後に原作者自らが仰言っていたとおり――原作のせいであって、映画としては往年の怪奇映画のテイストを巧みに再現した良作であると私は見ました。誰が撮ってもこれ以上の出来にするのは無理でしょう。故に私は評価します。詳しい感想は明日以降、このへんに

 終了後は舞台挨拶。木場修を演じた宮迫博之が事情があって欠席となったのは残念ですが、京極堂役の堤真一、関口役の永瀬正敏、榎木津役の阿部寛久遠寺涼子・梗子二役の原田知世、中禅寺敦子役の田中麗奈久遠寺菊乃役のいしだあゆみ、そして監督の実相寺昭雄に原作の京極夏彦と実に八人もの主要スタッフ・キャストが間近で観られたので文句を言う筋合いではなく――尤も、遠すぎて表情とか服装とかほとんど解らなかったが。

 時間はけっこう確保してあったようなのですが、如何せん人数が多いうえに、前夜からの行列とミラノ座を埋め尽くした観客に興奮していたらしい司会の女性がもたついていたせいもあってそれぞれ話す時間も内容もちと物足りない印象でした。とりあえず実相寺監督の仕事が異様に速く、夕食前にはきっちり終わらせてしまうために、様子を見に行くはずの京極氏が別の現場から移動してきてみたらとうに誰もいなくなっていた、というエピソードが強烈でした。堤氏いわく、普通の監督なら「カット! OK!」と言うべきところを実相寺監督は「カット! めし!」だったとか――どこまで本気かは知りませんが。上映後ということもあって、ネタバレや本編を観てのお楽しみ、という話題にも触れていたので、とりあえずこのくらいで。

 ちなみに舞台挨拶のあいだ、ポスターなどに使用されている姑獲鳥さんの像が舞台上に飾られていたのですが、撤収するとき倒したようで、手から赤ん坊が落ちてました。おいおい。

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