『あの日、欲望の大地で』

『あの日、欲望の大地で』

原題:“The Burning Plain” / 監督・脚本:ギジェルモ・アリアガ / 製作:ウォルター・パークス、ローリー・マクドナルド / 製作総指揮:シャーリズ・セロン、アリサ・テイガー、レイ・アンジェリク、トッド・ワグナー、マーク・キューバン、マーク・バタン / 共同製作:ベス・コノ、エドゥアルド・コンスタンティニ・ジュニア、マイク・アプトン / 撮影監督:ロバート・エルスウィット,ASC / 追加撮影:ジョン・トール,ASC / プロダクション・デザイナー:ダン・リー / 編集:クレイグ・ウッド,A.C.E. / 衣装:シンディ・エヴァンス / キャスティング:デブラ・ゼイン,CSA / 音楽:ハンス・ジマー、オマー・ロドリゲス・ロペス / 出演:シャーリズ・セロンキム・ベイシンガージェニファー・ローレンス、ホセ・マリア・ヤスピク、ヨアキム・デ・アルメイダ、ジョン・コーベット、ダニー・ピノ、J・D・パルド、ブレット・カレン、テッサ・イア / 配給:東北新社

2008年アメリカ作品 / 上映時間:1時間46分 / 日本語字幕翻訳:岸田恵子 / 字幕演出:神田直美

2009年9月26日日本公開

公式サイト : http://yokubou-daichi.jp/

Bunkamuraル・シネマにて初見(2009/10/03)



[粗筋]

 ――海辺に建つ高級レストランでマネージャーを務めるシルヴィア(シャーリズ・セロン)には、裏の顔がある。職場では目配りが利きスタッフからの信頼も厚い有能な女性だが、私生活では行きずりの男とも関係を重ねる奔放な性生活を送っており、自傷癖の傾向もある、破滅的な一面があった。部下のコック、ジョン(ジョン・コーベット)が所帯を持っていることを知りながら平然とベッドを共にし、関係を深めることに興味はない。訪れた客にアプローチされて、いちどは拒んでも、すぐに身体を許してしまう。彼女の心には深い闇が拡がっていた。

 ――メキシコで暮らす少女マリア(テッサ・イア)の父親は、農薬散布用飛行機のパイロットとして働いている。GPSの管理や食事作りを手伝っているために、仕事となると一緒に現地に入るのが常だったが、そんな彼女の目前で悲劇が起きた。父の運転する飛行機が、農園に墜落したのである。辛うじて一命は取り留めたが、危険な状態にあるなか、父は同僚カルロス(ホセ・マリア・ヤスピク)に頼み事をする。そのためにマリアは、病床にある父を残してメキシコを離れることになった……

 ――荒野に置き去りにされたトレーラーハウスが炎上し、その中からひと組の男女の屍体が発見された。情事の最中の惨劇だったために、遺体を引き離すために一部を切断する必要があったという。死んだ男はニック(ヨアキム・デ・アルメイダ)、女はジーナ(キム・ベイシンガー)、ふたりとも異なる家庭を持っていた――つまり不倫関係であった。

 ニックの息子であるサンティアゴ(J・D・パルド)は、葬儀を憎悪の眼差しで見つめていたジーナの遺族のひとり、マリアーナ(ジェニファー・ローレンス)に目を惹かれた。他の家族がニックこそ母を奪った男、と呪っているなかで彼女ひとり、心なしか違う雰囲気を湛えていたのだ。家族がありながら、裏切る心中が理解できなかったサンティアゴは、その謎を解きたい一心から、密かにマリアーナと接触を図る。それが新たな悲劇を招くとは想像もせずに。

[感想]

アモーレス・ペロス』から始まる3作続けてのアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督との共同作業に、名優トミー・リー・ジョーンズの主演・監督作『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』で独特の語り口を映画ファンに印象づけた脚本家ギジェルモ・アリアガによる、初の長篇映画である。

 いま挙げた映画はいずれも、複数の視点、時間軸での物語が複雑に入り乱れ、それらが次第に結びつき、或いは僅かに接して離れていく様を描くことで、本来シンプルな物語を謎めいたものにし、ドラマに更なる奥行きを齎す、という手法が取られている。それ自体、フィクションにおいて決して珍しいものではないが、ここまで一貫して同様のスタイルを選択し、自家薬籠中のものにしている映画脚本家はアリアガ監督ぐらいのものだろう。

 本篇でもやはり従来通りの手法を選んでいるが、さすがに手捌きは堂に入っている。トレーラー火災で発覚した犠牲者ふたりの倫ならぬ愛と、その影響を少しずつ受けていく遺族達の姿を描く一方で、職場で信頼を築きあげながら私生活で乱れ荒れた様を見せる女性の肖像を随所に織りこんでいく。ここにメキシコで農薬散布の仕事をする男性の事故が絡んできて、なかなか全体像を掴ませない。一部の粗筋などでは細部の関係性をはっきり記してしまっているが、実のところあまりそういったものに触れず、最小限の予備知識で観たほうが、本篇は製作者達の意図した通りの演出を味わうことが出来るはずだ。細かなモチーフの一貫性などを拾い、それぞれの視点、時間軸の位置関係を推測しながら観ることで、生じる謎やその答を探ることがこのギジェルモ・アリアガ脚本作品の正しい楽しみ方だと思う。

 だが、語り口が齎す推理小説めいた雰囲気にあまりに期待しすぎ、“解決”にカタルシスを求めようとすると、肩透かしの印象を受ける恐れがある。本篇の場合、最大のキーポイントはシルヴィアがいったい何から逃げてきたのか、であるが、これは勘がいいか、ある程度描写を巧く汲み取っていけばすぐに察しがつく。“解決”部分がクライマックスに来ているペース配分は巧みだが、そのあとに描かれる結末も、謎解きのあととしてはあまりに穏やかで、カタルシスに結びつきにくい。

 また、複数の視点が入り乱れる物語は、そうでなくても観る側が混乱しやすいのに、あまり配慮していないのが気に懸かる。その混乱自体が仕掛けと直結する場合もあるので一概に否定は出来ないのだが、本篇の場合は視点を錯綜させることで観客を引っかけたり何かを誤認させようという意図はなく、複数の視点、時間軸の出来事が合流して大きなドラマに結実することを狙っていることを思うと、もう少し視点の切り替えがはっきり伝わるような趣向が必要ではなかったか。

 しかし本篇の場合は、脚本の時点で完成度が高いせいか、漫然と眺めていれば混乱するかも知れないが、ある程度しっかりと描写を辿っていればきちんと視点の変化、最終的にどういう時間的繋がりがあるのかもちゃんと理解できる。加えて、この手法が齎すドラマの膨らみという意味では、まったくケチのつけようがない。シルヴィアが何故自傷に走るのか、マリアーナは何故母の不倫相手の息子が接触してくるのを受け入れたのか、といった謎の奥にある心理の機微、それぞれの登場人物が示す表情の意味合いなどが、敢えて多くの視点を絡ませ時間軸を相前後することで、深みを増しているのだ。

 とりわけ個人的に感心したのが、随所に鏤めた、ひとつの共通点で結ばれる描写をラストシーン手前でフラッシュバックさせたあたりである。このモチーフは途中でもぼんやりと意識はさせるものの、あまり深い意味はないように思われるのだが、ラストで1本に繋がることで、シルヴィアにささやかな、しかし極めて重要な一歩を踏み出す後押しになる。しかもこのフラッシュバックのなかでさり気なく、だが作中できちんと解き明かされていない、ある人物の行動原理について仄めかしているのが巧妙だ――この点についてはきちんとした説明がなく、私が誤解からいささか深読みをしている可能性も否定できないのだが、しかし決して何もかもを説明し尽くしていないからこそ解釈の幅がある、ということの証左であり、本篇の懐の深さを示す材料であることは間違いないと思う。

 ひとつだけ残念なのは終盤、シャーリズ・セロン演じるシルヴィアに、たとえつたなくともスペイン語を使わせるべきだったのでは、という違和感があったことだが、この点についても幾つか解釈のしようはあるし、必ずしも疵とは言えまい。

 謎解き的な興趣を誘うドラマに仕立てるなら、解決部分をもっと劇的にするべき、など受動的な姿勢で鑑賞してもダイナミズムを味わえる作品を求める向きはあまりお気に召さないだろうが、掘り下げる楽しみ、自分なりに解釈する愉悦を求めるならば、ごく上質のドラマである。仮に観た直後に“いまいち”という感想を抱いたとしても、気になった部分をメモに羅列するなり、頭の中で再度吟味してみていただきたい。印象は違ったものになってくるはずだ。

関連作品:

21グラム

バベル

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

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