『50/50 フィフティ・フィフティ』

『50/50 フィフティ・フィフティ』

原題:“50/50” / 監督:ジョナサン・レヴィン / 脚本:ウィル・ライザー / 製作:エヴァン・ゴールドバーグ、ベン・カーリン、セス・ローゲン / 製作総指揮:ネイサン・カヘイン、ウィル・ライザー / 撮影監督:テリー・ステイシー / プロダクション・デザイナー:アニー・スピッツ / 編集:ゼーン・ベイカー / 衣装:カーラ・ヘトランド / キャスティング:サンドラ=ケン・フリーマン、フランシーヌ・メイスラー / 音楽:マイケル・ジアッチーノ / 出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィットセス・ローゲンアナ・ケンドリックブライス・ダラス・ハワードアンジェリカ・ヒューストン、マット・フルーワー、フィリップ・ベイカー・ホール / ポイント・グレイ製作 / 配給:Asmik Ace

2011年アメリカ作品 / 上映時間:1時間40分 / 日本語字幕:石田泰子 / PG12

2011年12月1日日本公開

公式サイト : http://5050.asmik-ace.co.jp/

TOHOシネマズ渋谷にて初見(2011/12/01)



[粗筋]

 ラジオ局に勤めるアダム・ラーナー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、酒は控え目で煙草も吸わない、事故に遭うのを恐れて運転免許さえ取っていない。

 にも拘らず、彼はある日、いきなり死を身近に感じる羽目になった。少し腰が痛んだので、病院で検査した結果、癌が見つかったのである。

 専門用語ばかりの医師の言葉は大して耳に入らず、アダムは帰宅後、インターネットで自らの病名を検索した。生存率は、50%。転移した場合、それは更に10%にまで落ち込む、掛け値なしの難病だった。

 最初に病名を伝えたのは、半同居状態の恋人レイチェル(ブライス・ダラス・ハワード)だった。ここ最近、ややギクシャクしていたこともあって、アダムは重荷になるなら、と別れを提案したが、レイチェルは傍で支えたい、と固辞する。

 一方、学生時代からの友人で、いまも同じ職場に籍を置くカイル(セス・ローゲン)の反応は軽かった。50%なら上出来だ、カジノで大勝ちだって出来る。

 両親に打ち上げられたのは、宣告から2日後だった。母は2日も連絡しなかったことをなじり、看病のために引っ越してくる、とまで言い張ったが、レイチェルがいるから、と言って拒絶する。

 まず腫瘍を小さくするため、手術に先駆けて抗ガン剤の投与を行うとともに、アダムにはセラピストがつけられた。腕に針を突き立てて顔を揃えているのは年配の男性たちばかり、紹介されたセラピストのキャサリンは未だ研修中の身分で、アダムは三人目の患者なのだという。

 カイルはアダムの病気をネタにナンパを試みるし、アダムを支える、と健気な宣言をしたはずのレイチェルは病院に入ることもない。別に腹を立てているつもりはないが、キャサリンはそれも穏やかな心境なのではなく、病人特有のサヴァイヴァル・モードなのだといい、もっと感情を晒すように諭す。

 なにか、ドラマとはまるで印象の違う闘病生活。そしてアダムは間もなく、思いも寄らない岐路を迎えるのだった……

[感想]

 この映画は、作中でカイルを演じ、本篇のプロデューサーをも担ったセス・ローゲンが、実際にガンを宣告された友人に脚本を執筆することを薦めたことがきっかけで誕生したのだという。ローゲンの代表作のひとつ『スーパーバッド 童貞ウォーズ』が、ドラマで描かれている高校生たちの生活が、自分たちのものとは違う、という想いから構想された、という経緯があり、同様に実際が経験する闘病生活と、フィクションで綴られるものとのギャップに着眼したのは当然と言えよう。

 それ故に、本篇のトーンは、難病を患った人物を中心としたドラマの定石とは大きく異なっている。正業には就いているがうだつの上がらない青年の日常をユーモアも交えて描いていたかと思うと、ほとんど唐突に、ガンが告知される。あまりにもするっと話が動くので、たいていの観客は主人公アダムと一緒になって呆気に取られてしまう場面だ。

 だが、この唐突さはよくよく考えてみればリアルである。アメリカではガンは必ず告知される決まりになっており、それは翻って、医師にとってはごく日常的な出来事だ。やたらと身構えたり感傷的に語るようなことはなく、ごくごく事務的に処理するのは当然といえる。

 それに対するアダムの反応も、いい意味で芝居がかっておらず、非常に生々しい。悲嘆に暮れるよりは、ショックが大きすぎて心が防御態勢を取り、一種の無感覚に陥る。医師の話も、その場ではほとんど耳を素通りしており、あとでネットで病名を検索し、そこに記された“生存率50%”という文言を目にして落ちこむ。従来のドラマではあまり目にしたことのないこの最初の衝撃は、しかし非常に説得力がある。

 その後の治療にしてもそうだ。死ぬ覚悟や闘病の意識を固めるといった区切りをつける瞬間などなく、本人の意志とは関わりなく治療やカウンセリングが始まる。抗ガン剤の投与が他の患者と同じ場所であるため、自分よりも遥かに年長のガン患者たちの友人が出来るかと思えば、カウンセラーは自分よりも人生経験の乏しい素人で頼りないことこの上ない。

 特に着眼なのは、周囲の人々の描写である。カイル以外の職場の同僚は同情的だが、カイルが音頭を取った慰労会の場で、アダムは励まされるたびに会話に詰まっているし、カイルはカイルでアダムをネタにして、女性を口説こうとする。普通の映画なら献身的に主人公を支えるか、紆余曲折があるにしてもドラマを感動的に盛り上げるはずの恋人に至っては、病院に入りもしないし、迎えにも遅れてくる。中盤の成り行きなど、主人公の立場からすると本当に最悪だ。

 しかも、こうした状況を前にして漂うのは悲愴感よりも滑稽さである。本篇は全般に、涙を誘うようなシチュエーションよりも、主人公の振る舞いに直感的に共鳴し、ニヤリとさせられる描写が多いのだ。たとえば抗ガン剤を投与しているさなかでの出来事、葉っぱ入りのマカロンをお裾分けしてもらい、ハイになった状態で病院の廊下を歩くあいだの表情。たとえば、カイルに唆されて、病気をネタにナンパを試みるくだりの言動など、いっそ病気の状態をエンジョイしているようにすら映る。無論、本人は決して積極的に愉しんでいるわけではないが、周囲の認識との温度差、誰よりもアダムに近いところにいるカイルという楽天的な男の言動と相俟って、トーンは終始軽快になっているのだ。

 病気は苦しい、しかしまだ死んでいるわけではないし、生きるのを諦めたわけではない。そこには湿っぽさよりも、病人なりの穏やかな生活、ドライな日常がある。考えてみれば当たり前のことを、本篇は病を患った当事者の目線で、あけすけに、しかし繊細に描き、従来の難病を扱ったドラマとはまったく違った空気を作りあげた。

 恐らく、同じような境遇の人を励まそう、元気づけよう、というつもりも作り手にはないだろう。ただありのまま、率直に描いていることが、だが本篇の軽快さを裏打ちし、最後まで揺るがない誠実なイメージにも繋がっている。

 こうして眺めたとき、リアリティのある人物造型が全般に有効に働いていることもまた確かだ。終始軽薄な言動を続けるカイルは、だが最後に思わぬ一面を見せることで心を和ませるが、そこが効果を上げるのは、セス・ローゲンが終始ぶれずにこの愛すべき人物を演じきったが故である。素人目にも危なっかしい新米カウンセラーのキャサリンは、アナ・ケンドリックが『マイレージ、マイライフ』で演じた役柄を逆手に取ったような人物像を組み立て、カウンセリング以上にその表情がアダムのみならず観客まで癒してしまう。ベテラン勢が好演する母や患者仲間もそれぞれに印象深い。

 だがやはり特筆すべきは主人公を演じたジョセフ・ゴードン=レヴィットであろう。『インセプション』でも主役級を食う存在感を示した若き演技派だが、本篇では病気を知ったことで無感覚に陥った青年の感情の揺れを巧みに演じている。何事も安全第一で、爪を噛むくせがあり、やたらと几帳面、という下手をすると気難しさばかりが際立ちそうなキャラクターがこれほど魅力的に映るのは、その演技力に加え、彼が持つチャーミングな表情がうまく調和しているからだろう。諸事情から撮影開始一週間前にキャスティングされた、という慌ただしいスケジュールだったそうだが、一種天の采配だったのではないか、とさえ思えるハマりっぷりである。

 従来のいわゆる“難病もの”の、非現実的なほどのドラマティックさにうんざりしていたような人こそ、いちど観てみるといい。そうでない人も、病気を扱ったドラマには珍しい軽さ、柔らかさに心地好い余韻が得られるはずだ。

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